誰も言わないホロヴィッツの敗北

鍵盤音楽
江戸時代の浮世絵に描かれたスカイツリー。の、音楽フラクタル。 バロック時代に演奏されていたジャズフレーズ。

 1983年、伝説のピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツが突然の来日、2回の公演を果たし、帰米した。来日理由を隠蔽するためだけと思えるほど、演奏の出来映えばかりが語られ3年後、これまたまさかの再来日、そして間もなく死去。それが1989年、我が国は昭和天皇の逝去による改元を向かえた年だった。以来30余年。演奏者以上にアタマにヒビの入った骨董品評論家の台詞のみを残し、来日決意の深意は永久に置き去りにされた ・・・ と胸をなで下ろしておられるホロファンの皆さん。そうは問屋が卸しません。薄々感づいているのは分かっております。今ここに真相&深層を白日の下に晒し、彼以外のもう一人のピアニストを礼賛させていただく。

 ホロヴィッツのイキナリ来日公演を実行した真相。イキナリ結論。至極簡単単純明快。前年1982年12月20日、生涯のライバルであるアルトゥール・ルービンシュタインが死去したから。年齢的にはルービンシュタインがホロヴィッツよりも20年近く年長だが、ホロヴィツのことをルービンシュタインは「初めて自分のポジュションを脅かすピアニストとして恐れを抱いた」、と素直に認めている。太平洋戦争前の1936年に初来日しているが、その時の記録はあんまり残っていない。新響(現N響)とベートーベンのピアノ協奏曲第三番を演奏し、楽団員を「ピアノソロでは余りに大人しいので眠ってしまうかと思ったが、ソロが終わるとパッと起きてちゃんと構える」が、「素晴らしい楽団だった。」と賛辞を述べている。昭和初期の事だから、これはかなり日本人サービス向けのコメだろう。が、1966年、太平洋戦争後に再来日し、この時は空前の大讃辞で迎えられた。1945年の終戦からの本格的な復興が、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催である、てな風に何かにつけて語られるが、音楽界にあっては、この昭和41年も戦後経済成長の象徴的な年であったと、もっと言及されて然るべきだろう。ビートルズ来日イヤーとしてばかり取りだたされるが、クラ界に於いては、何せカラヤンとルービンシュタインが殆ど同時に来日を果たしたんだから凄いだろ。しかもルービンシュタインはNHK交響楽団との演奏を岩城宏之の指揮で、なんとビートルズ公演の一ヶ月後の日本武道館で演奏したのだ。その時の彼の台詞。「オレの人気はビートルズよりも1000人多い。何故かって?だってどっちも武道館は満席だったが、その内の1000人、あっちは警官だろ?」。どうです、インタビューでクラシックのピアニストが「ビートルズに勝利」宣言しちゃうんでっせ、御年80歳で!こうして彼も日本を愛し日本人聴衆も彼を愛し、アメリカへ帰って行った。

 で、どういう因縁かルービンシュタインの奥さんもホロヴィッツの奥さんも実父は指揮者である。なのでご夫人同士は中々仲良しであった。旦那たちはバチバチだというのに。でも結局ヨメさん同士のとりなしで、家族ぐるみの付き合いはしていたようである。当然ホロヴィッツはルービンシュタインから日本での成功談を聞かされたことだろう、いや聞かされたはずだ。それを聞いて彼は「ルービンシュタインごときがそんなにモテたなら、オレならもっと!」と、思ったのは間違いあるまい。日頃ルービンシュタインの演奏力を小莫迦にしていたからだ。ルービンシュタインもそれは自覚していた。だから彼も、来日の成功を語ることは演奏技量では敵わないことの鬱憤晴らしの面が無きにしもあらずであったろう。そして「ルービンシュタイン如きでそんなに日本人は喜んだのか。じゃまだ日本には西洋クラシックの何たるかが全然浸透しとらんのだな。」と思うのもムリはなかろう。この時分、海外、特に欧米では、教科書に「日本人はちょんまげというヘアスタイルで刀を差して会社に勤務します。」という今から見ればヒジョーにオモロい著述がされていたのだから。ニューヨークの街でひたすら引きこもっているホロヴィッツのアジア認識も同程度だろう。インターネットなんか無い時代のことだし。が、流石に「ん、万一ヤツ(ルービンシュタイン)よりモテんかったらイヤだな」かくしてホロヴィッツ、長期作戦に打って出ることにした。すなわち「待つ」のだ、ひたすらに。目の上のタン瘤たる先輩ピアニストが世から消滅するまで。ナニ自分よりもずっと年齢は上だ。幸いオレは待つの大得意だせ、12年もニューヨークの自宅でヒッキーしてた、って実績あるからな。そうして待つこと15年。ついに偉大な先輩の訃報を知る。「よっしゃ今だ、日本でモテてモテてモテ捲るぞ、行くぜ、WANDA。」そう、アサヒの缶コーヒーってホロヴィッツ夫人の名前なんだよ。この会社の役員にはにトスカニーニやホロヴィッツファンがいるに違いない。

 ルービンシュタインもホロヴィッツも、本当の出生年は不明である。その理由は両方とも同じ。兵にとられてピアノを弾く自由が失われぬよう、周囲が兵役免除の画策に動いていたためである。ルービンシュタインは最終的に1887年生まれと発表したが、自伝やインタビューでは、それよりも前の生まれでないと辻褄のあわなくなるエピソードがあったりする。ホロヴィッツをwikiってみると、1903年生まれとあるが、来日時点では1904年生まれとなっていた。それに基づくと来日公演は6月で誕生日は10月だから78歳ということになる。まぁ、ピアノを弾くには随分な高齢で、そりゃ全盛期の演奏力を期待する方がヤボというもの。決して悪い演奏ではなかったと思うし、あの演奏技巧至上主義の清水和音氏でさえ「あんなもんです」と言っていた、だが ・・・ どちらが日本人に多くの幸福を与えてくれただろう。答えは言うまでも無し。確かにホロヴィッツも芸を聴かせてくれた、賛辞と引き換えに。が、ルービンシュタインが与えてくれたのは芸以上に「愛」だった。それも「愛」と等価交換で。

 ウラディミール、残念だね。晩節を汚す、ってコトバがこんなにハマる人生になっちゃって。貴方はルービンシュタインに勝ったと思っているけど、自分に敗北したんだ。何故そう断言出来るのかって?アルトゥールは貴方の演奏に打ちひしがれ、自殺さえ考えた。でも滑稽な未遂に終わり、こうつぶやいたんだよ。「オレは自堕落だった。復讐しよう、ホロヴィッツにではなく自分に」ってね。

追記.二人には膨大なディスコグラフィが残されている。ルービンシュタインは大半がスタジオ録音、ホロヴィッツはライブと、この面でも対照的である。が、僅かに聴くことの出来るルービンシュタインのライブ音源は非常に自由かつ大胆で、アドリブかと思うくらいテキストから逸脱、崩して弾いているものがある。明らかにオーディエンスとのコミュニケーションともに成立する演奏であり、案外ホロヴィッツの流儀と近かった、だからこそライブ盤販売の許可に厳しかったのかもしれない。

 

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